3019
長崎南高校関東同窓会
坂の途中から伸びたまた別の石段で、野良猫が二匹、昼寝をしていた。弟がその石段に足をかけると、黒猫のほうだけがちらっと目を開けて、またすぐ閉じる。弟は二匹の猫を跨ぐようにして段を上がった。そのとき、石段の先のほうにある古い民家から、女の子が二人飛び出してきて、「ほら、ジャンパー着ていかんね!」と呼ぶ母親の声がなかから追ってくる。小さいほうの女の子が、その声に足を止め、家のなかに慌てて戻る。お姉ちゃんらしい少女のほうは、すでに坂段を駆け下りてくる。その足音に驚いて、二匹の猫が今度は同時に、面倒臭そうに目を開ける。
 すると、駆け下りてきたその女の子が、「こんにちは」と弟に挨拶をした。まさか知り合いだとは思っていなかったので、ぼくはちらっと前を歩く弟の背中を見上げた。
「どこ行くと?」と弟が訊く。
「お菓子、買いに」と、女の子は元気に答えた。
 駆け下りてきた女の子とすれ違って、その家の玄関先に差し掛かると、今度はきちんと上着を着た小さな女の子と一緒に、おばあさんが現れた。さっきの呼び声は、母親ではなく、おばあさんだったのだ。
「こんにちは」
 先に声をかけたのは、弟のほうだった。
「あら、どこ行ったと?」
 孫娘のちいさなからだを、手のひらでやさしく送り出しながら、おばあさんが訊いてくる。
 弟は、「ちょっと下まで」とだけ答えた。おばあさんもそれ以上は何も訊いてこない。ただ黙って笑みを浮かべ、坂段を上がっていくぼくらを見送っていた。
 ぼくとは違って、弟は、高校卒業後この町に残った。ただ、それだけのことだった。ただ、それだけのことだったのだが、このときぼくは、今、歩いてきた石畳の坂道がーー、細い路地を仕切る苔の生えた石塀がーー、そして、チンチン電車の走るこの町が、とても遠くなったように思えて、先を歩く弟の背中をふと見上げた。
最近、この界隈の坂道を、のんびりと歩いて回る観光客が増えたそうだ。そう言われてみれば、急な坂段や入り組んだ細い坂道のあちらこちらに、町歩き用の地図や案内板が立ててある。以前は、有名な名所旧跡までしか上がってこなかった観光客たちが、その足をもう少し上のほうまで延ばしてくれるようになったらしい。
 歩いてみれば、なんてことのない坂道かも知れないが、この辺りを遠来の客たちがのんびりと歩いてくれていると思うと、なんとなく嬉しいような、少し照れくさいような気持ちにもなる。
 坂道というのは、やはり平らな道とは違う。きちんと、その一歩一歩に力を込めないと、なかなか先へは進めない。一歩一歩に力を込めれば、おのずと口数も減ってくる。ちょうどぼくと弟のように、一言も口をきかず、ただ黙々と歩くようになる。ただ、黙々と坂を上れば、いろんなことを考える。昔の、いろんなことを懐かしく思い出し、これからの、いろんなことを考えられる。
 それに、坂の上からは、必ず眼下の景色が見える。どんな坂でも、上り切ってそこに立てば、港を囲むように広がる、美しい長崎の街が見下ろせる。


長崎 「坂段のその先へ」  (3)